『経済数学の直観的方法 確率・統計編/長沼伸一郎』
経済数学の直観的方法 確率・統計編 (ブルーバックス)
https://amazon.com/dp/B01N66D7CV
Highlights & Notes
統計学自体が,いわば人間の都合で見栄えの悪いデータにヤスリをかけて小ぎれいにするツールに過ぎず,下手をすれば生データの中に隠されていた「神の指紋」をヤスリで削り取ってしまいかねない代物だ,という態度が垣間見えるのである。
これは確率論の歴史を振り返るとまさに革命的で,この時に確率論全体がそれに合わせて根底から作り直されたと言ってよい。そしてこの時に確率論には一種の「思想」が入り込んだのだが,どうもそのあたりの事情について語られることが意外に少なく,そして読者がそれを十分に知らされていないことが,ひいては先ほどのような確率統計の理解の困難を作り出しているように思われる。
実はそもそも一般に,確率論の議論をたどる際には一つ注意すべき点があり,それは正確に言うとこの時にガウスが研究していたのは「確率論」というより「誤差論」だったということである。  つまりこの時の彼の発想の出発点は,例えば望遠鏡で星の位置などを観測する際に,その観測誤差がどういうメカニズムで生まれてしまうのか,という問題だったわけで,こうしてみると,どうも普通の確率論の教科書での印象と違って,この時の彼の頭の中にあったイメージは,サイコロなどよりもむしろ望遠鏡のようなものではなかったのかと思われるのである。
つまり誤差が一定方向に出ることがわかっている場合,人間や自然はそれを何らかの形で修正しようと行動する。一方それに対して,+方向と-方向に全く同じ大きさで現れる誤差に関しては,人間は修正の方法をもたず,それは確率の神の手に委ねるしかないということである。
つまりこうしてみると,実は一般に誤差というものは大きくこの2つの部分,つまり「一定方向に出る誤差」と「+方向と-方向に同じだけ出る誤差」の2つから成り立っており,そして純粋に確率論に支配されている誤差は後者の部分だけだということがわかるのである(これは非常に本質的なことで,この思想は後の中級編,上級編でも重要な役割を演じることになる)。
それは要するに,われわれはこういう場合,「各部で±1の誤差が出てそれが無数に多段式に重なると,最終的にどういう分布パターンに落ち着くか」を考えればよいということであり,ガウスが見抜いていたのはこういうことだったと推察されるわけである。
これは確率統計論そのものにとっても意外な展開で,以前にも述べたように本来なら確率統計論というものは,データの誤差を人間が見栄えの良いようにトリミングする技術に過ぎず,下手をすればせっかく生データに隠れていた「神の指紋」をヤスリで削り取ってしまうことさえあるという点で,この学問全体がそこから最も遠い世界にあるはずのものだった。ところが意外にもその中核部分に「神の指紋」がはっきり刻印されたものが見つかってしまったのである。
そしてこの「パラレル・ワールド」では,標準偏差や偏差値の概念なども非常に簡単なものですんでいたと考えられるのであり,もしそうならば,まずそちらで大筋を先に把握してしまうことによって,これらの難しい概念を簡単に理解する道が開けてくることになる。
まずそもそも,われわれが物事の分布状態を知りたいという時,その最終目的は何か,つまり言葉を換えると,それによって最終的にどんな情報を得たいのだろうか。その答えを言えば,それは要するに突き詰めれば「各位置で何個の玉が縦に積み上がっているか」を知ることに尽きるのであり,それがわかれば事実上,すべてを把握したことになるのである。
一般にわれわれの世界の統計の公式(正規分布曲線を基礎にしたもの)を眺めた時に,もしその式の中に「2乗」という部分があったなら,そこを「1乗」に直すと,パラレル・ワールドの三角形での公式になってくれる場合が多い
つまり逆に言えば後者の周辺部位置のグループの方が,グラフの中心線の移動を敏感に反映することになり,そのためこちらに頼った方が,グラフの位置を正確に推理できることになるわけである。
しかし上の話を見ると,とにかく中央部になだらかな山が生じているような分布パターンであれば,正規分布でない場合でも,ある程度使えることがわかるだろう。
そういう一般性があるため「なぜ2乗すると誤差が最小になるか」の説明は,正規分布曲線の話を経由せずに,幾何学的に線と点の距離の話などを使って行うこともある程度は可能である。そして表面的にはその方が簡単なので,一般にはそちらで説明されることも多い。しかし恐らくガウスの発想の原点に近いのは,むしろ上のように「背後に隠された正規分布曲線の中心線位置を探す」ということであるように思われるのである。
要するに,ある問題が外からいろいろな要素の影響を受けて変動していて,それらの外部の要素やその影響が,それぞれ別個の確率分布パターンに従っているとしよう。この場合,その最終的な振る舞いを求めるには,それらの多種多様な確率分布パターンによる影響を全部合成したものを求める必要があり,その最終的な分布パターンは非常に複雑で表現の難しいものになるはずである。ところがそれらを全部加えていくと,その合成の結果として現れるものは,何と最終的に単純な正規分布のパターンになってしまうということである。
それに対して前者の部分は,その観測対象などがもっている何らかの性質や構造によって現れるものであり,見ようによっては後者の部分に一種のバイアスとして付け加わったものでしかないとも言える。実際そのバイアスは多くの場合,対象のもつ構造などに起因する規則性によって表現することができ,そのバイアスの規則性をどう導入するかで,何通りもの分布パターンを作り出すことができる。
ただ誤解のないよう一言付け加えておくと,歴史的には中心極限定理は,必ずしもこうした発想から出発して見出されたものではない。むしろそれは直接的には「二項分布によるたくさんの確率分布を集めていくと,それが正規分布になる」という議論が出発点となって,そこから生まれた話である。  そして歴史的に見ると,その初期段階の二項分布レベルの話は,ガウス以前の時代からある程度知られており,中心極限定理はその発展形として成立したものである。そのため通常の教科書的な理解も,その筋道に沿って行われるのが普通であり,上の議論は,あくまでも後からこのフィルターを通して直観的に眺めた話なのだということは,一応留意しておいていただきたい。
普通なら,そのように影響を受ける要素が増えるほど,問題は複雑化し,到底人間の手に負えないほどのものになってしまうはずである。  ところがこの場合は話が全く逆で,そのように多種多様な確率分布をたくさん加えていくと,ちょうど光がいろいろな色の光を足していくときれいな白色光になるのに似て,それらを合成したものは単純な正規分布に戻ってしまい,むしろ人間が容易に扱えるものに変わっていってしまうのである。
そもそもほとんどの確率分布理論は,人々の行動がばらばらで一様であるという仮定の上に成り立っているのだが,「この点が売り時だ」という答えの情報が社会全体に伝わると,その点に皆が殺到して,それまで平坦だったグラフがそこに集中的な高い山をもつパターンに変わってしまい,理論の前提が根底から覆って,モデル全体が倒壊してしまうのである。
そして言うまでもなく,最近のコンピューター売買が発達した世界でしばしば起こっている巨大な金融破綻も,しばしばこの宿命によるものである。つまりなまじ正しい予測モデルが作られてしまうと,それが人気ソフトウェアの形で世界中のコンピューターに組み込まれ,それらが一斉に売り注文を自動的に出してしまうため,巨大な金融破綻を引き起こしてしまうというわけである。
そのため「正規分布よりもっと進んだものをベースにすれば優れた理論ができるのか」という話については,筆者は物理の世界を見てきた目から次のように言いたい。それは最後に笑うのは結局は正規分布と古典統計だということである。
つまり人間のそうした「予測理論を作っては破綻する」という営み自体も観察対象とする形で,これを数十年,数百年にわたって天から眺めて,それら全てを包括した巨大な統計をとってみると,無数の予測理論が作り出すピークによるバイアスもやはり同様に相殺・平均化されていき,ついに神の指紋たる正規分布のパターンが,壮大な形で再びそこから姿を現す,ということになるはずである。  こうしたことを眺めるにつけ,自戒の意味も込めて言うと,筆者には何やら人類の確率統計の世界そのものが,芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の話に似ているようにも思える。つまりこの物語では,主人公の極悪人が地獄の血の池の中で 呻吟 しているのだが,それを天から眺めていたお釈迦様が一本の蜘蛛の糸を主人公の上に垂らしてやる。お釈迦様は,主人公が生前ただ一度だけ優しい心を出して一匹の蜘蛛を助けたことがあるのを知ってそうしたのだが,それを見つけて喜んだ主人公は早速その蜘蛛の糸を上りはじめる。  要するに天から垂らされたこのたった一本の糸が,ガウスの正規分布曲線なのである。そしてその下には無秩序なデータの混沌があって,人類はそこから這い上がるためには,結局はこのただ一本の糸にしがみつくしかないのである。さて物語の続きはどうなったかというと,主人公が半分ほど上ったあたりでふと下を見ると,他の大勢の罪人たちが糸に群がって下端に巨大な人の塊ができているではないか。これでは重みで糸が切れると思った主人公は,下に向かって「これは俺の糸だ! お前らは離れろ!」と叫ぶと,糸は主人公のすぐ上のあたりでぷっつり切れて全員が血の池に落ちて戻ってしまう,というお話である。  これを見ると,どうやらコンピューターが発達するほど,糸の下端にできる人の塊のサイズが巨大化する傾向があるというのが真実で,いずれにせよ読者...
もっともそれだけ聞くと,何だかこれらがたまたま表面的に似ていたため,金融工学が強引にそれらを結びつけて解釈したようにも見えるのだが,しかし実はこれらは遥かに本質的なところで結びついているのである。
これを見ても,正規分布というものが如何に統計現象を広範に支配しているかがあらためてよくわかるが,とにかくブラウン運動自体が正規分布の一つのバリエーションであって,一見するより遥かに普遍的な現象なのであり,それを金融現象の分析の基礎に置いたのは,単に表面的にその動きが似ていたためだけでなく,むしろ根本的なところでちゃんと理由があったのである。
なおこの場合,どうして底辺幅そのものでは駄目かというと,正規分布曲線の場合,十分時間が経った後の定常状態が表現されているため,初級編でも述べたように,裾野がもともと無限遠にまで広がっていて,底辺幅では時間的な拡大が表現できないからである。
パチンコ台の問題はまさにその例で,この場合にはジグザグの回数は実は台に打ってある釘の段数で決まる。つまり例えば台の上から下まで30段の釘が打たれていたら,玉は落ちる間にそれにぶつかって上から下まで30回のジグザグを繰り返し,それは人がパチンコ台の前に何十時間座っていようと,どの玉も等しく30回である。
ともあれブラウン運動やランダム・ウォークの場合,時間の経過と共に確率分布曲線がどう変化するかの問題は非常に重要で,それは一般に「確率過程論」と呼ばれる。しかしこうしてみると,初級編で述べたガウスの思想のイメージは最初から確率過程論的であったと言えなくもない。
これは経済学の観点からも重要な話で,実はブラック・ショールズ理論はまさにこれを基本原理として使っているのであり,要するに状況を何らかの形で「絶対値ゲーム」にもっていくということが,今後の話の重要ポイントになっていくのである。
ではその2種類とはどんなものかというと,まず一つは,ばらついたサンプルの「数値の大小」のバラエティそれ自体に依存するもので,数値の大きさが「3」とか「7」とかのようにばらばらであることで互いに凹凸が相殺され,全体が平坦になってしまう,という形のものである。  それに対してもう一つは,もっと単純な+と-の二極相殺,つまりサンプルの値に+か-の符号がついていることだけで生じるものである。これは,それらの数値の大きさはどうでもよいから,とにかく単に「+か-」だけが問題で,その符号の単純な二極効果に依存する相殺メカニズムである。
そしてわれわれが常識的に「サンプルをたくさん集めればばらつきが相殺されて0になる」と考えているとき,頭に思い浮かべているのはしばしば前者のメカニズムの方なのだが,実際には本当に強力なのはむしろ後者の力なのであって,ばらつきをゼロにする主力となっているのは,現実には単純な+と-の二極相殺のメカニズムの側が,圧倒的な割合を占めているのである。
この場合,最初の話で各データがずばり原点に戻って来ずに幅をもってしまうのは,前者の相殺効果,つまりベクトルのバラエティそのものに依存していて,その相殺能力が弱いからそうなってしまう。一方最後にその少しばらついたデータを合計する際には,それらのデータ分布が原点を中心にシンメトリーになっているため,後者つまり+-のみによる強力な相殺効果が効いてきて,きれいに0になるのである(なおこのパラドックス的な話は,理系では「時間平均」と「集団平均」という話の中にも現れ,それは理系の学生も結構苦労する話なので,経済学部生は必ずしも百パーセント理解できなくても気落ちする必要はない)。
そのためある意味でこのベクトル③には「浸み出し」のメカニズムが集約されていると見ることができ,実際極端な話,もし仮にこのベクトル③だけが毎回繰り返された場合でも,拡散半径はやはり時間と共に拡大することになるのである(そしてここでは右半分の話は省略したが,このとき右の反対側にあるベクトル④が混じって,③と④だけが繰り返されるという形になっても,拡散半径の拡大自体は全く同じ形で進行する)。
それにしてもなぜわざわざそんな面倒なことをするのかというと,理系の世界では実数だけでなくもっと広い意味での数を扱うため,それら全部に対応できる一般的な方法としては,むしろそういうルールにしておいた方が,統一的に扱えて便利なのである。
なお本書では初級編から一貫して,一般に物事の動きは,一定方向に動いて人間が予測や修正ができる部分と,+-等分にランダムに動いて確率に委ねるしかない部分の2つに分かれるというのが基本思想だったが,金融の世界では,前者の一定方向に上昇して安定した収益が期待できる部分を「トレンド」,後者のランダムに上下する部分を「ボラティリティ」と呼んでいる。
とにかく全体としてこういう構図を作ることができたので,こうなれば後は,こういう絶好の連動関係をもったペアを探して来ればよいのだが,もともと金融の世界では,連動して動く株や債券などというものは大量に存在しているものである。実際そこでは例えば何か債券などの値段が上下していたとき,その上下をネタに,さらにそこから派生する形で新たに別の債券を作り上げる,ということがそこら中で行われており,それらがいわゆる「デリバティブ=金融派生商品」である。
実際に多くの読者は一応は頭では納得したものの,今でもまだ「どこかに落とし穴やごまかしがあるのではないか」という疑念が残っていると思われ,確かにブラック・ショールズ理論も含めた金融工学が現実にリーマン・ショックで大災厄を引き起こしたため,そう疑うのは当然である。しかしその災厄自体は,本章第2節の『蜘蛛の糸』の話のように,根本的にはそこに多くの人間が群がりすぎたことに原因があり,必ずしも基本原理自体が間違っていたためではない。
しかしこれまでは,一般読者がこの理論の内容を直観的に理解することが難しかったため,その解説はもっぱら金融のツールとしてマニュアル的な暗記法に終始するか,あるいは経済界の外から,何か理解困難ないかがわしい話として遠巻きに眺めるかのいずれかがほとんどだった。  そのためこれを,金融の話よりもっと大きな視点で,広い教養の話題として捉えるということがあまり行われてこなかったように思えるのだが,このように直観化が可能になると,その道も開けてくることになる。そこで,これが実は将来の世界を生きるわれわれが一般常識として広く知っているべき重要な話であるということについて,以下にもう少し具体的に述べてみたい。
そしてこの仕組みでは,理屈の上ではとにかく価格差がありさえすれば利益が出ることになるが,ここで特に注目すべきことは,たとえ両方の島が不作でも,とにかく不作の程度に差がありさえすれば,一応は富を生み出すことができるということである。
要するに貿易の考え方によれば,「世の中全体が豊作でも不作でも富を生み出すことができる」というわけである。
そして似ているといえばもう一つ,当時の貿易は,最初のうちはその理屈を知っているオランダなどの一部の貿易国家のみが利益を独占し,巨額の富を得ていたが,その知識や情報が世界に浸透していくにつれて,そういう利益の独占体制は崩れていき,一部の貿易国家だけが巨額の利益を得るという性格のものではなくなっていった。  そして現在では貿易の利益はあらゆる国に分散されて,それは各国の経済統計の中に広く薄く「自由貿易体制を採用していることで得られる経済的利益」という形で存在し,世界経済の中に地味だが堅固な地位を占めている。
ただ最近のITを活用して作り出されるトレンドを見ていると,それらの多くが実は「人減らし」や「たくさんの機器を1個だけにまとめるスマート化」などをテーマにしていて,その需要が一巡した後の世界では,労働市場も消費市場も今よりさらに一回りコンパクトでタイトなものになることが予想される。  つまり現在のそうした需要や利益は,実は将来の労働市場や消費市場を少数の人員や製品だけで成り立つような形に変えることで,生み出されていることになるわけである。そのためどこかタコが自分の足を食べるという話に似て,将来の需要を先に今食べてしまって,それをどんどん先細りにしているような懸念がなくもない。確かにITの可能性を活用すれば当面トレンドは作れるものの,それが本当にトレンドと投資を今と同じ大きさで,定常的に維持していけるものなのかは,かなりの疑問符がつくのである。
まずあらためて話を整理すると,今までの資本主義社会では,何らかのイノベーション・技術革新が起こった時に,そこからのスピンオフをテーマとする形で一種の「トレンド」が作り出され,伝統的な資本主義のシステムは,その「トレンド」の部分に巨額の投資を行って,金融機関がその資金調達を支える仕掛けになっている。
そして経済世界全体は,名目的な金額面ではそのように幾何級数的に拡大していくが,さすがに実体社会は物理的にそこまでのスピードでは拡大できない。そこで,実体経済の拡大で吸収しきれない余剰部分に関しては,インフレが緩やかに吸収して,名目的な物価全体の上昇と実体経済の拡大を合計することで,全体の帳尻が合う形になる,というのが,冷徹に眺めた場合の構図である。
そしてその考えを極端に推し進めて,ただ「持続可能」という一点だけから考えるならば,その極限的に理想的な形態は,経済成長を一切しない定常的な農耕型の経済社会だということになるだろう。  その場合,むしろこれまで大きな「トレンド」が存在していたということ自体が,資本主義社会の暴走の元凶ということになり,逆に安定して定常的な農耕社会というのは,基本的にイノベーションの起こらない世界で,「トレンド」の部分も存在しない。つまり原理的には「トレンド」が存在しない状態にしてしまえば,環境問題だけの観点からは理想的な「完璧に持続可能な社会」になるということである。
そしてその経済世界では,米の収穫量を基準に国内の力関係のバランス体系が作られていたが,もし被支配階級である商人層の経済力が上昇して多くの富を手にすると,相対的に経済全体の中で農業経済の部分が占める割合が小さくなり,それは結果として武士層の貧困化をもたらすことになる。つまりこの体制を維持するためには,商業による経済成長はむしろ無い方が望ましく,そのため政権側は,進歩やイノベーションそのものを危険視して,「トレンド」への投資が行われない停滞的な経済を作ろうとしたのである。  ところがここでブラック・ショールズ理論のビジョンが教えることは,もしトレンドの部分が存在しなくなっても,もう一方の「ボラティリティ」の側は残ってしまうということである。つまり社会というものは,たとえ制度的に完全に停滞的・定常的な状態を考えようとしても,そこには擾乱によるボラティリティ型での拡大部分がどうしても残ってしまって,それを除去することが原理的にできないのである。  そのため江戸時代の経済の場合もその宿命から逃れられず,確かに政権側は「トレンド」に巨額の投資を行う近代資本主義社会が生まれることは阻止したが,もう一方の「ボラティリティ」の拡大部分に乗った商人層の経済成長を止めることは結局はできず,そしてその成長を裏から支えて二人三脚で拡大する金融システムも,商人たちの間で自然発生的に生まれてしまっていたのである。
つまり従来の,トレンドに巨額の投資を行う伝統的な資本主義経済では,経済成長も金融も,基本的に指数関数型の曲線で幾何級数的に急拡大する形になっていたが,「ボラティリティ型資本主義」ではそれが直線的に緩やかに一定率で上昇するグラフになっており,このことが将来的に重要な示唆を与える可能性があるのである。
複利で幾何級数的に増える
ため,「持続可能性」という点で大きな疑問符がつくものとなっていた。
しかし読者の多くもご存じのように,イスラム法では金利というものは禁じられている。  ではそういう状態でどうやって金融や投資の部分をまかなっていたのかというと,イスラム法の場合には「投資家・出資者は事業者と平等にリスクを負担する」という原則があった。つまり投資家は,あくまでも「共同出資者」という形で事業に出資し,事業で収益が出れば,そのうちの何割かをもらうことができるが,もし事業が失敗して損害が出た場合,出資者は事業家に最後まで付き合って,一緒の立場でその損失を分け合わねばならない。これはかなり大雑把な説明だが,とにかくイスラム世界の経済は,金利がなくてもこういうシステムによって,投資資金の基本部分を調達していたわけである。
常識的に考えると,何だかむしろ近代資本主義の理屈の方が理不尽のように見えなくもないのだが,ではどうしてわれわれの資本主義世界ではそういう一見不健全な方法をとっているのかというと,それはその方が大量の資金を集めやすいからである。つまりこの場合,投資資金はただ金額や金利という数値だけで規格化され,「どういう事業に出資するための資金なのか」というネームプレートがついていない。そのためいろいろな場所からの出資金を全部混ぜて一緒に大量にプールしておけるし,そこにプールされている資金を適当なサイズに細分化して,どの投資先にも振り向けることができるのである。
そしてここで注目すべき点は,この段階で「複利」のシステムが宿命的に入り込むということである。つまりそのように投資が時間的に細分化されて,短い単位時間での自由な乗り換えや入れ替えができるためには,単位時間ごとにその都度リセットできる形になっていないと,システムとして成立しない。  つまり貸し手と借り手の契約が,ある単位時間(1年なり1ヶ月なり)の利子が3%などという形に単純化されていると,その一区切りごとに全部の資金がその都度,一旦リセットされる形で同じスタートラインに立つ恰好になるため,どこからの資金でも同じように肩を並べて中途参加できるわけである。
このように資金を広範囲から集めるためのシステムでは,資金そのものが独り歩きして幾何級数的に自己増殖するメカニズムを宿命的に抱え込むことになり,ひいてはそれが,資本主義社会そのものを指数関数的に拡大する宿命を負わせているわけである。
そしてこの視点からあらためてイスラム金融を眺めると,そこでは先ほど述べたように,投資資金は最後まで事業家に付き合う必要があるため,時間的な細分化が許されない。
これらのビジョンは,今後われわれが「資本主義の次」のシステムを設計する際に,かなりの影響を与える可能性があり,その際には,金融や経済が拡大することそれ自体は,阻止できないものとして容認するが,ただその金融が指数関数型ではない直線的なものでありさえすれば「持続可能」という条件と両立できる,つまり金融の部分をなるたけ直線パターンに近い形で設計するということが,一種の妥協案の中で一つの重要な目標となってくることが考えられるのである。
それを含めてあらためて全体を眺めると,この話の価値は,これがツールとしてどれだけ使えるかということよりも,むしろこのビジョンが,新しい思考として頭の中に入ってくることそれ自体にあるように思われる。
つまり具体的に言うと, y と x の間の関係や連動性は y = F( x),あるいは微小変動の形で dy = F( dx)などの関係式で表現されているが,これは x を介した間接的な表現に過ぎず,この状態では y が具体的にどう動くかを頭の中でグラフに描くことはできない。
つまりこの場合われわれの本来の望みとしては,過去に天体などで「宇宙や世界がどう動くかを解き明かす」問題で成功したのと同じことを,ジグザグ運動を含む問題でも再現したい,ということなのだが,この場合ジグザグ運動の細かい情報そのものはむしろどうでも良いことが多く,一番欲しい本命の情報は,やはり前半部分の Adt,つまり一定方向に動く部分なのである。  要するにこの前半部分が「世界がどの方向へ動くのか」という本当に知りたい話の情報なのであり,それに比べれば後半のランダムな Bdw の部分は,むしろ一種の邪魔なノイズのようなものに過ぎない。そのため両者が混ざった形でしか出て来ないようでは困るのである。
そのため何か未知の F を,これを使って解き明かそうとしても,しばしばニワトリと卵の関係のようになって,結局大した効果が上がらないのであり,その意味でこれはあくまでも,近似の際にこそ最も有効なツールなのである。
さらにそのブロックの厚さ α のそのまた変化率が β なのだから,結局この β は F の2階微分に相当する量だと推察することができる。
経済学でも状況は似たようなものである。  そのため2次の項つまり などの出番が訪れるのは,何らかの形で第1項がうまく使えない場合などがほとんどなのだが,ところが伊藤のレンマやそれに基づいて作られたブラック・ショールズ理論だけは少し事情が異なり,むしろそこではその第2項の方が主役的な役割を果たしていて,極端に言えばこの第2項だけが非常に貴重なのであり,そこが一般の他の用法と比べた場合の大きな特徴である。
それは要するに「オーダー(桁数)の違うものを足し合わせる際には,オーダーの小さい側の項は無視できる」ということである(ただしこのルールは掛け算の場合には適用されず,足し算の場合だけである)。
そもそも考えてみると,本来ランダムであるべき確率統計の問題をなぜ人間が一定の秩序をもった式で扱えるのかということ自体,一般にこの種の問題が2つの部分に分けられて,後者のランダムな部分を正規分布という共通パーツの形で扱える,ということが最大の基礎となっており,実際それがなければ人類はランダムな現象の中に切り込んでいくことはできなかったろう。
これは測度論の場合にも似たようなことが言えて,現実にはやはり問題全体が,比較的早い段階で連続的なアナログ量に近似され,重要で本質的な話の部分が,普通のアナログ的な積分の中であらかた完結してしまっているため,実戦レベルでは別に測度の話など知らなくても,そこで大体話がすんでしまう,という場合の方が多いのが実情である。
要するにこの段階で,集合関数 P( A)によって, A 1 や A 2 などの抽象的な集合が「確率値」という数値(アナログ量)に変換されていることになる。
何だか拍子抜けするほど簡単な発想だが,ただしこの場合の m などはどんなものでも良いというわけにはいかず,何しろ極度に抽象化されているので,本当に高校積分の Δ x や dx と全く同じ役割が果たせるためには,ある程度限定された性質をもつものに限られる。
そして高校の積分では微小幅の「長さ」を dp としていたが,その長さの部分を「測度」の形に修正し,たとえ扱う対象が抽象的なデジタル量でも,集合を使ってそれを扱えるように定義した積分が「ルベーグ積分」である。それに対して従来どおりにここを単なるアナログ量の数値の「長さ」として定義した在来型の積分は,区別するために「リーマン積分」の名で呼ばれている。
このあたりの事情も位相や関数解析の場合と基本的によく似ており,「マクロ経済学編」でも述べたように,議論の最中でこれらの話に遭遇した際には,議論の中でどこまでがこの話なのかを,大まかに識別することが重要なのである。  測度論の場合も,上の話が頭にあれば,少なくとも議論のどの部分までがこの話なのかを識別できるはずで,そして本当の重要な話は,ほとんどの場合その外で行われている。そのため測度論の部分は後回しにして,先にそれ以外の重要部分を先に攻略してしまうのが,理解の早道である(その際,もし面倒なら,要するに「測度」というのは,積分の中についている dx や dp のことをそう呼んでいるのだ,という程度の乱暴な理解でも,迂回前進を行うには十分かと思われる)。
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#2024/02/26
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